プロフィール
財政破綻寸前の米沢藩を、倹約と産業振興によって立て直した江戸中期の大名。
上杉鷹山(うえすぎ ようざん、本名・治憲〈はるのり〉)は、寛延4年(1751年)、日向国高鍋藩(現・宮崎県)の秋月家に生まれた。幼くして米沢藩主・上杉重定の養子となり、明和4年(1767年)、17歳で米沢藩9代藩主に就任する。当時の米沢藩は、上杉謙信以来の名家でありながら、度重なる財政難で借財が藩の年収の約20倍にまで膨らみ、幕府への領地返上すら検討されるほどの窮状にあった。
鷹山は自ら率先して倹約を実行し、藩主の生活費を大幅に切り詰める一方、荒地の開墾や養蚕・織物業(後の米沢織)、製紙・製蝋業など新たな産業を奨励して藩の収入基盤を広げた。人材育成にも力を入れ、藩校・興譲館を整備して身分を問わず学べる場を設けた。改革は当初、譜代の重臣たちの抵抗を受けたが、鷹山は側近を登用しながら藩政の立て直しを進めた。天明5年(1785年)、35歳で家督を養子・治広に譲って隠居したが、隠居後も後見として藩政を導き続けた。
家督を譲るにあたり治広に示した「伝国の辞」(国家は先祖より子孫へ伝えるものであり、藩主が私有すべきものではないとする三箇条の心得)は、為政者の心構えを説いた文書として後世に広く知られる。鷹山の改革によって米沢藩の財政は徐々に立て直され、文政5年(1822年)、71歳で没した。倹約と産業振興、そして「なせば成る」に象徴される行動を重んじる姿勢は、幕末以降の日本でも改革者の手本として繰り返し語り継がれている。