プロフィール
『東京物語』『晩春』などで知られる映画監督。畳に座った人の目の高さに据えた低い固定カメラで、ごく普通の家族の日常を撮り続け、その一貫した様式は「小津調」と呼ばれた。没後半世紀を経てなお世界の映画作家に最も参照される日本人監督の一人である。
1903年12月12日、東京市深川区(現在の東京都江東区深川)に生まれた。九歳のころ、父の郷里である三重県松阪へ母や兄弟とともに移り、少年期をこの町で過ごしている。中学を出たあと、1922年には三重県飯高郡宮前村の宮前尋常高等小学校で代用教員を務めた。山あいの村で子どもたちを教えていた青年が、翌1923年、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影助手として入社する。カメラを担ぐ助手から始まり、1927年に時代劇『懺悔の刃』で監督デビューした。これは彼が撮った唯一の時代劇で、以後は生涯、同時代の市井の人びとだけを撮り続けることになる。
サイレント期にすでに高い評価を得ていたが、1937年に応召して中国戦線へ送られ、1939年に帰還。1943年6月には陸軍報道部の映画班としてシンガポールへ渡り、敗戦後の抑留を経て1946年に帰国した。戦後の小津は、家族が集まり、やがて子が家を出ていくという、どこにでもある出来事だけを繰り返し描いた。『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、そして『東京物語』(1953年)。カメラを畳に座った人の目の高さまで下げて固定し、ほとんど動かさない。役者の芝居も構図も徹底して整えられ、その一貫した様式は「小津調」と呼ばれた。1958年の『彼岸花』では初めてカラーで撮っている。当時映画界を席巻していたワイドスクリーンは最後まで採らず、画面の形とカメラの位置だけは変えなかった。
生涯独身で、長く母と暮らした。映画人として初めて日本芸術院会員に選ばれ、1962年11月18日公開の『秋刀魚の味』が遺作となる。1963年12月12日、六十歳の誕生日に死去した。北鎌倉の円覚寺に眠り、墓石には戒名も名前もなく「無」の一字だけが刻まれている。国内では「日本的すぎて外国には分からない」と長く言われた作風だが、実際には逆のことが起きた。ヴィム・ヴェンダースやホウ・シャオシェンをはじめ世界の作家が彼を参照し、2012年に英国映画協会の雑誌『Sight & Sound』が行った映画監督による投票では、『東京物語』が史上最高の映画の第1位に選ばれている。