プロフィール
大正末から昭和初めに活躍した童謡詩人。二十六年の短い生涯で512編の詩を遺し、没後半世紀を経て再発見された「私と小鳥と鈴と」「大漁」「こだまでしょうか」などが、いまも国語教科書や広告を通じて読み継がれている。
金子みすゞは1903年4月11日、山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)に生まれた。本名は金子テル。生家は書店を営んでいたが、幼くして父を亡くし、母と祖母のもとで育った。海に囲まれた漁師町で、本に囲まれて育った少女は、二十歳の頃、下関にあった親戚の書店・上山文英堂の支店で店番をしながら詩を書きはじめる。1923年、投稿した作品が『童話』『金の星』『婦人倶楽部』『婦人画報』の9月号に一斉に掲載され、選者だった詩人・西条八十に絶賛され、「若き童謡詩人の巨星」と評されたと伝えられる。以後、彼女が生前に雑誌へ発表した詩は90編を数える。
みすゞの詩の特徴は、視点の低さと、視点の移し替えにある。大漁に沸く浜辺を描いた詩では、海の中では何万もの鰮(いわし)の弔いが行われているだろうと、祝いを魚の側から見つめる。鈴や小鳥といったちいさなものと自分とを、対等に並べもする。強い者・大きい者の側からではなく、見過ごされるもの、声を持たないものの側に立って世界を描いたことが、彼女の童謡を単なる子ども向けの歌から、大人が読んでも動かされる詩に変えている。1926年には童謡詩人会の会員に迎えられ、同じ年に結婚し、長女ふさえをもうけた。
しかし結婚生活は苦しいものだった。夫から詩を書くことも詩人仲間との文通も禁じられ、みすゞは筆を折る。1930年2月に離婚が成立したのち、娘を手元で育てたいという願いが叶わないまま、同年3月10日、自ら命を絶った。満26歳だった。彼女の詩は活字にならなかったものが大半で、そのまま忘れ去られてもおかしくなかった。
言葉を救い出したのは、一編の詩に出会った一人の読者だった。児童文学者・矢崎節夫は学生時代に読んだ「大漁」に衝撃を受け、十数年にわたって作者の行方を探し続け、1982年、みすゞの弟・上山雅輔から三冊の遺稿手帳を託される。そこには512編の自筆の詩があった。1984年、『金子みすゞ全集』(JULA出版局)として刊行されると、みすゞは半世紀の沈黙を破って読者のもとへ戻った。2011年、東日本大震災の直後にACジャパンのCMで「こだまでしょうか」が繰り返し放送されると詩集に注文が殺到し、その名は世代を超えて知られるようになる。2003年、生誕100年に合わせて生家・金子文英堂の跡地(山口県長門市仙崎)に金子みすゞ記念館が開館し、詩は多くの言語に訳されて海を越えた。生前ほとんど本を出せなかった詩人の言葉が、いま世界で読まれている。