プロフィール
黒澤明(1910-1998)は東京都出身の映画監督・脚本家。『羅生門』『七人の侍』『生きる』などを手がけ、世界中の映画作家に影響を与えた「世界のクロサワ」。
黒澤明は1910年3月23日、東京府荏原郡大井町(現・東京都品川区)に、8人きょうだいの末っ子として生まれた。父・勇は陸軍戸山学校出身の体育教師で、旧会津藩士の家系であった。当時の軍人には珍しく映画好きだった父は、幼い黒澤を頻繁に映画館へ連れて行った。歳の離れた兄・丙午は無声映画の内容を観客に語る「弁士」として活躍し、黒澤に映画や文学の手ほどきをした重要な存在だったが、トーキー(発声映画)の普及で弁士という職業そのものが失われていく中、1933年に自ら命を絶っている。少年時代は画家を志し、旧制中学卒業後は独学で洋画を学び、プロレタリア美術運動にも参加したが、絵で身を立てる自信を持てないまま20代半ばを迎えていた。
1936年、映画会社P.C.L.(後の東宝)が助監督を公募していることを知り、小論文試験に応募して採用される。ここで生涯の師と仰ぐことになる監督・山本嘉次郎に付き、脚本術と現場の演出を叩き込まれた。1943年、剣術修行の青年を描いた『姿三四郎』で監督デビュー。1950年に発表した『羅生門』が、1951年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、日本映画を世界に知らしめる転機となった。以後、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)、『赤ひげ』(1965年)などを次々に発表し、俳優・三船敏郎とのコンビで日本映画の黄金期を築いた。躍動感あふれるカメラワークと緻密な脚本、そして人間の弱さと尊厳を同時に描く作風は、後にジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラ、セルジオ・レオーネら世界の映画作家たちに大きな影響を与えている。
『赤ひげ』以降、完璧主義的な作風のために製作費が膨らみ、日本国内での資金調達が難航するようになる。1970年の国際共同製作作品『どですかでん』が興行的に失敗すると、翌1971年、黒澤は自宅の風呂場で自殺を図るという苦しい時期を経験した。それでも映画への情熱を失わなかった黒澤は、ソ連(当時)との合作『デルス・ウザーラ』(1975年)で復活を遂げ、同作はアカデミー外国語映画賞を受賞した。1980年には、ルーカスとコッポラの後押しで資金を得た『影武者』がカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞し、1985年の大作『乱』も国際的な高い評価を得た。1990年、第62回アカデミー賞授賞式で、ルーカスとスピルバーグを紹介役にアカデミー名誉賞(功労賞)を受賞。同年の『夢』、1991年の『八月の狂詩曲』、1993年の遺作『まあだだよ』まで、生涯にわたり映画を撮り続けた。1998年9月6日、東京都世田谷区成城の自宅で脳卒中のため88歳で死去した。「世界のクロサワ」と呼ばれたその作品群は、今も国境を越えて多くの映画作家・観客に影響を与え続けている。