プロフィール

五歳で子役デビューし、五十五歳で引退するまでに三百本を超える映画に出た、昭和の日本映画を代表する女優。『二十四の瞳』『浮雲』などの名作で知られる一方、『わたしの渡世日記』で日本エッセイスト・クラブ賞を受けた随筆家でもあり、引退後は書く仕事と静かな暮らしに徹した。

本名は平山秀子(結婚後は松山秀子)。1924年3月27日、北海道函館市に生まれた。幼い日に実母を亡くし、父の妹の養女となって東京へ移り住む。五歳だった1929年、松竹蒲田撮影所の『母』(野村芳亭監督)に出演して子役デビューし、たちまち「天才子役」として人気を集めた。しかしその人気は、そのまま一家の生計になった。撮影のために学校へはほとんど通えず、稼ぎは養母が握り、幼い彼女は働き手として大人の都合のなかに置かれ続ける。のちに彼女が自分の言葉で書き残した半生記が、美談ではなく醒めた目で綴られているのは、この出発点があるからである。松竹から東宝、新東宝へと移り、十代で『綴方教室』(1938年、山本嘉次郎監督)、『馬』(1941年、同監督。製作主任として黒澤明が多くの場面を撮っている)などに主演した。

戦後、彼女はどの撮影所にも属さないフリーの俳優となる。二十六歳のときには、スターという虚像から離れるように半年間パリで独り暮らしをした。帰国後の仕事は日本映画の最良の部分と重なる。木下惠介監督の『カルメン故郷に帰る』(1951年)は日本初の総天然色映画として公開され、彼女は都会から故郷へ帰るストリッパーを演じた。同じ木下監督の『二十四の瞳』(1954年)では瀬戸内の分教場の大石先生を、成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955年)では戦後をさまよう女を演じ、国内外の賞を受けている。人気の絶頂だった1955年、『二十四の瞳』で助監督を務めた松山善三と結婚。松山の監督デビュー作『名もなく貧しく美しく』(1961年)にも主演した。出演作は生涯で三百本を超える。1975年に紫綬褒章を受章した。

高峰のもう一つの顔は書き手である。『週刊朝日』に1975年5月から1976年5月まで連載した自伝的随筆は、1976年に『わたしの渡世日記』上下二巻として朝日新聞社から刊行され、第24回日本エッセイスト・クラブ賞を受けた。飾らず、身内にも自分にも甘くない文章は、俳優の余技という評価をとうに超えていた。1979年、木下惠介監督の『衝動殺人 息子よ』を最後に、五十五歳で銀幕を退く。以後は二度と俳優に戻らず、夫と暮らしながら書き、身のまわりの物を減らし、人と会う数を絞った。晩年には、『週刊文春』の記者を長く務めた斎藤明美を、夫・松山善三とともに養女に迎えている。2010年12月28日、肺がんのため東京都渋谷区の病院で死去、八十六歳。生誕100年にあたる2024年には国立映画アーカイブなどで特集上映が組まれ、その仕事があらためて見直された。子役として大人に使われた人が、最後は自分の言葉と自分の暮らしを自分で選び取った——その一貫性が、彼女の残した短い言葉に重みを与えている。

高峰秀子の名言一覧