プロフィール
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、盛岡藩士の家に生まれた教育者・農政学者。英文著書『武士道』で日本人の倫理観を世界に紹介し、国際連盟事務次長として東西の懸け橋を志した。
新渡戸稲造は、文久2年8月8日(新暦1862年9月1日)、盛岡藩士・新渡戸十次郎の三男として陸奥国盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に生まれた。稲造が5歳の年に父が病没し、明治維新の混乱の中で盛岡藩は新政府の「朝敵」とされ、新渡戸家も禄を失う。9歳で上京して英語を学んだのち、1877年(明治10年)、15歳で開校まもない札幌農学校(現・北海道大学)に第二期生として入学。同期に後年の思想家・内村鑑三、植物学者・宮部金吾がいた。同校の建学精神を形づくったクラーク博士はすでに離日していたが、博士が学生に残した「イエスを信じる者の誓約」に感化され、翌1878年に洗礼を受けてキリスト教徒となった。
札幌農学校卒業後、1884年(明治17年)に私費でアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学し、経済学・統計学を学ぶ。1887年からはドイツのボン大学・ベルリン大学・ハレ大学で農政学・農業経済学を修め、ハレ大学で博士号を取得した。1891年、アメリカ滞在中に出会ったクエーカー教徒メアリー・エルキントンと結婚。帰国後は札幌農学校教授、京都帝国大学教授、第一高等学校長、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任し教育者として活躍する一方、1899年から1900年にかけて療養先のアメリカ・カリフォルニアで英文の著書『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』を執筆した。日本人の倫理観を欧米に向けて説いたこの本は世界的な反響を呼び、セオドア・ルーズベルト米大統領も愛読したと伝えられる。
1920年(大正9年)、国際連盟の設立とともに事務次長の一人に選ばれ、日本人として初めて国際機関の要職に就いた。7年間の在任中、知的協力委員会の創設などに取り組み、学生時代に語った東西の懸け橋たろうとする志を国際舞台で体現した。1933年(昭和8年)、日米関係が緊張を増すなか、太平洋問題調査会議に出席するためカナダ・アルバータ州バンフへ渡り、8月14日に日米の相互理解を訴える演説を行った。その後まもなく体調を崩し、10月15日、カナダ・ビクトリアにて満71歳で没した。1984年から2004年まで発行された5000円紙幣の肖像に採用され、「太平洋の架け橋」を志した生涯は今も国際交流の象徴として語り継がれている。