この名言の意味
この一行でいちばん働いているのは「よい」という言葉である。「一汁一菜で我慢する」でも「一汁一菜しかできない」でもなく、「一汁一菜でよい」。これは能力の話でも経済の話でもなく、許可の話だ。日本語の「よい」には「充分である」と「そうしてかまわない」の両方の意味が含まれている。つまりこの言葉は、料理の水準を下げているのではなく、下げてよいと決める権利が作る側にあることを思い出させている。
次に効いているのが「提案」である。命令でも、指導でも、正解の提示でもない。プロの料理人が家庭に向かって「こうしなさい」と言えば、それはまた一つ守るべき基準が増えるだけになる。土井はそれを避けて、あくまで一つの案として置いた。受け取る側が採用してもしなくてもよい、という距離の取り方そのものが、この言葉の主張と一致している。基準を自分で決め直そうという提案が、押しつけの形をしていては筋が通らないからだ。
中身も見ておきたい。一汁一菜とは、ご飯と汁物とおかず一品のことだが、土井の型では味噌汁に野菜も豆腐も油揚げも肉も入れてしまう。具だくさんにすれば、味噌汁がおかずを兼ねる。つまりこれは品数を削って寂しくする引き算ではなく、一つの器に集約する設計変更である。手抜きに見えて、実は毎日成立するように組み直された「型」なのだ。型があると、人は献立を毎晩ゼロから考えずに済む。決めることが減るというのは、それだけで疲れの総量を減らす。
そしてこの言葉が台所を超えて読まれてきた理由は、そこにある。私たちの毎日には、誰かが決めたわけでもないのに、いつの間にか高く積み上がった「これくらいはやるべき」がいくつもある。理想的な食卓、理想的な部屋、理想的な働き方。基準が高いこと自体は悪ではないが、達成できない基準は、達成できない日ごとに人を少しずつ削っていく。この一行は、その削られ方に気づかせ、線を引き直す許可を渡してくれる。手を抜けと言っているのではない。長く続けたいものほど、続く高さで持ちなさいと言っている。
現代への示唆
今日、あなたが「毎日やらなければ」と思っていることを一つ思い浮かべてほしい。夕食でも、日報でも、筋トレでも、部屋の片づけでも、語学の勉強でもいい。そのうえで、その合格ラインを「これだけできていれば今日は合格」というところまで、自分の手で下げてみる。夕食ならご飯と味噌汁、日報なら三行、筋トレならスクワット十回、片づけなら机の上だけ。大事なのは楽をすることではなく、明日も明後日も続けられる高さに線を引き直すことだ。続かない百点より、続く六十点のほうが、一年後のあなたを遠くへ運ぶ。今夜、その線を一本だけ引き直してみてほしい。
背景と出典
これは料理研究家・土井善晴(1957年生)が2016年10月にグラフィック社から刊行した著書の書名そのもので、著者が自分の主張を一行に凝縮して掲げた言葉である。土井は「おふくろの味」という言葉を世に広めた料理研究家・土井勝の次男に生まれ、スイスとフランスでフランス料理を、大阪の日本料理店「味吉兆」で和食を修業したプロだが、テレビや雑誌で家庭料理を教える仕事を続けるうちに、ある逆説に突き当たった。レシピや献立の情報が豊かになるほど、毎日台所に立つ人は「これだけやらなければ」と追い詰められていく。栄養バランスも、彩りも、家族の好みも、季節感も——手を尽くせば尽くすほど終わりがない。そこで彼が差し出したのが、ご飯と具だくさんの味噌汁、あれば漬物という日常の型だった。なお「一汁一菜」という言葉自体は鎌倉時代の禅寺の食事に由来する古い日本語で、土井の造語ではない。彼が新しくしたのは語ではなく、それを我慢や質素の勧めとしてではなく「これで充分だと自分に許すための基準」として提案した点にある。本書は2021年に新潮文庫となって累計40万部を超え、第10回大阪ほんま本大賞 特別賞を受け、英語版の刊行も決まった。