この名言の意味

まず「睡眠力」という言葉の作りを見たい。日本語で「〇〇力」と言うとき、私たちはそれを鍛えたり伸ばしたりできる能力として扱っている。学力、体力、集中力——いずれも本人に属する力だ。水木は、そこに眠りを並べた。眠ることは何もしていない時間ではなく、その人が持っている力の一つなのだ、と。この一語だけで、睡眠は「サボり」の側から「才能」の側へ移される。よく眠れる人は、能力を一つ多く持っている人だということになる。

次に「幸福力」との等式である。ふつう幸福は、手に入れたり訪れたりする状態として語られる。運や環境の話になりやすく、だから他人と比べたくなる。ところが水木は幸福もまた「力」だと言う。状態ではなく力だとすれば、それは持っている条件ではなく、日々の扱い方で増えたり減ったりするものになる。そして彼は、その力の源をよりによって睡眠に置いた。幸福でいるための最初の一手は、考え方を変えることでも環境を変えることでもなく、今夜きちんと眠ることだ、という順序である。

「ではないか」という留保も、この言葉の品格をつくっている。断定して人に強いるのではなく、自分の実感として差し出している。眠れない夜を抱えている人を責めない書き方であり、押しつけの健康論とも違う。読む側は、命令ではなく仮説として受け取れる。試してみて、確かに楽になったなら採用すればいい——そういう距離の置き方が、この短い一文には含まれている。

最後に、これが片腕を失った人の言葉であることを重ねて読みたい。戦地で腕を切られ、マラリアに倒れ、戦後は長く貧しかった人が、九十三歳まで描き続けた。その生涯を振り返って幸福の条件を挙げるとき、彼は根性でも才能でもなく、眠りを挙げた。休むことは戦線からの撤退ではない。傷を治し、また明日描くための手当てである。今日うまくいかなかった自分を、夜のあいだに黙って直してくれるものがある。それを力と呼んでよい、と水木は言っている。

現代への示唆

私たちは睡眠を「削れる場所」として扱いがちだ。締め切りが迫れば真っ先にそこから削り、削ったことをどこかで誇りにさえする。水木の言い方はこれを裏返す。眠りは残りの時間から差し引かれるコストではなく、明日の自分を作る作業そのものだ、と。今日からひとつ試してほしい。今夜、寝る時刻を三十分だけ前に倒し、その三十分でやるつもりだった仕事を、明日の朝の自分に渡してしまうことだ。やめるのではなく、担当者を替える。同じ作業を、疲れきった自分と、眠った自分のどちらにやらせるかを選ぶだけである。うまくいかない日が続くとき、足りないのは根性ではなく睡眠かもしれない——そう疑ってみるのは怠けることではない。自分の回復力を、仕事の道具として数え直すことだ。

背景と出典

これは、漫画家・妖怪研究家の水木しげる(1922-2015)が、自身のエッセイ集『カランコロン漂泊記 ゲゲゲの先生大いに語る』(小学館。小学館文庫 2000年9月刊、2010年4月に新装版)の第四章「カランコロン的幸福論」に置いた「睡眠力」という一節で語った考えである。同じ章には「110点」「偉大なる胃」「貧乏力」といった短い節が並び、水木が生涯かけて見つけた幸福の条件が、ひとつずつ日常の言葉で書き留められている。ただし世に流通している引用形には「私は『睡眠力』は『幸福力』ではないか、と思っている」という形と「わたしは、睡眠力とは幸福力ではないかと思っている」という形の二通りがあり、一人称や助詞の揺れがあって一字一句を確定できないため、ここでは水木が語った趣旨として掲げている。この言葉に重みがあるのは、語ったのが安穏に眠って暮らせた人ではないからだ。水木は1943年に召集されて南方のニューブリテン島(ラバウル方面)へ送られた。1944年、マラリアで寝込んでいたところへ空襲を受けて左腕を失い、意識が朦朧とするなか、麻酔もないまま切断手術を受けている。翌1945年、彼が後方の傷病兵部隊で療養しているあいだに、所属していた部隊は玉砕し、多くの戦友が死んだ。1946年に復員してからも、紙芝居や貸本漫画で食いつなぐ極貧の時期が長く続いた。よく眠ることを幸福の中心に据えたのは、眠りだけが最後まで手元に残った回復手段だった人の実感である。