この名言の意味

この一行がしていることは、定義の置き換えである。「いのちは大切だ」という言い方は正しいが、正しすぎて手が動かない。日野原はそこで、命を心臓や呼吸といった体の部品から切り離し、「これから自分が使える時間」という、誰にでも数えられるものに言い換えた。数えられるということは、配り直せるということだ。抽象的な尊さを説くのではなく、今日の予定表の上で扱える形にしたところに、この言葉の実用性がある。

次に効いているのが「持っている」という語である。時間は与えられるものだが、いったん自分の手に渡ったあとは、どう使うかを決めるのは持ち主だ。命が時間だとすれば、命の使い方とは大げさな生き方の宣言ではなく、今日の午後をどう使うかという判断の積み重ねになる。逆に言えば、誰かに決められた予定で一日が埋まっているとき、私たちは自分の持ち物を他人に運用させていることになる。日野原の定義は、その所有権を静かに思い出させる。

「君たち」と呼びかけられているのは10歳の子どもたちだが、この言葉がいちばん刺さるのは、時間を無限にあるもののように扱ってしまう大人のほうかもしれない。子どもにとって時間は先へ長く伸びており、大人にとっては目の前の締め切りに切り刻まれている。どちらも、いま自分が使っている一時間が何でできているかを考えない点では同じだ。日野原はその一時間の材料を「いのち」だと言った。脅しではない。だからこそ好きに使ってよい、と言うための前置きである。

そして授業には続きがあった。命を自分のためだけでなく、自分以外の何かのために使うことを学んでほしい——医師として、また戦争と災害の現場を見てきた人としての結論がここにある。注意したいのは、これが自己犠牲の勧めではないことだ。時間は使えば減るが、誰かのために使った時間だけは、相手の中に残り、めぐって自分の一日の意味にもなって返ってくる。減るものと減らないものを見分けること。この一行は、その見分け方を10歳にも45歳にも同じ言葉で手渡している。

現代への示唆

今日あなたが自由に使える時間を、具体的に数えてみてほしい。通勤の30分、昼休みの40分、帰宅後の1時間。日野原の定義に従えば、それは「余った時間」ではなく、あなたのいのちがいまここに配られている姿だ。そう考えると、削るべきなのは睡眠でも休息でもなく、惰性で流れていく枠のほうだと分かる。まず今日は、その枠を一つだけ選んで、使い道を自分の意思で決め直してみる。そしてもう一つ。日野原は子どもたちに「その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」と続けた。今日の15分でいい。後輩の質問に最後まで付き合う、家族に電話する、同僚の資料を読んで感想を返す。誰か一人のために使った15分は、あなたの持ち時間から引かれるのではなく、いちばん減らない形で残る。

背景と出典

これは、聖路加国際病院の医師・日野原重明(1911-2017)が晩年まで全国の小学校を訪ね、10歳前後の子どもたちに続けた「いのちの授業」の中心にある言葉である。授業で日野原はまず「いのちはどこにあると思う?」と問い、聴診器を配って子どもたちに互いの心臓の音を聴かせた。心臓は動いているが、それは命そのものではない。では命はなぜ目に見えないのか——そこで語られたのがこの定義だった。講演録には「命はなぜ目に見えないか。それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」という形で残っている(月刊誌『致知』2008年12月号の講演録より)。ただし日野原は同じ趣旨を何度も語り、絵本『いのちのおはなし』(講談社、2007年)や『十歳のきみへ——九十五歳のわたしから』(冨山房インターナショナル、2006年)では言い回しが少しずつ異なる。そのためここでは一字一句の引用としてではなく、広く伝えられている形で掲げている。日野原自身、1970年のよど号ハイジャック事件では人質として数日を過ごし、1995年の地下鉄サリン事件では83歳の院長として病院を開放し、640人にのぼる被害者を受け入れた。与えられた時間をどう使うかという問いを、机上ではなく現場で考え続けた医師の言葉である。