この名言の意味

まず、この一句には接続詞がない。「新しい自分が見たいのだ」と「仕事する」が、ダッシュ一本で並べて置かれているだけである。「だから」「そのために」といった説明を、寛次郎は入れなかった。仕事を目的達成の手段として理屈で結ぶのではなく、欲望のすぐ隣に、動作としてぽんと置いた。読むと理屈より先に、手が動き出す感じが伝わってくる。

次に「見たいのだ」という言い方に注目したい。これは「新しい自分にならねばならない」という義務でも、「なってみせる」という決意でもない。ただ見たい、という欲望の告白である。義務は人を疲れさせるが、欲望は人を引っ張る。自解で寛次郎が「引きずられているのだ」「これ以外に人を動かす動力があるであろうか」と書いたのは、そのことだ。人を動かしているのは根性ではなく、まだ会っていない自分への好奇心だという見立てである。

では「新しい自分」とは何か。ここが肝心で、それは将来なりたい理想像のことではない。同じ土をこね、同じ形をろくろで挽き続けた陶工が言っているのだから、「新しい自分」は今日の作業の内側にしかない。同じ仕事を千回繰り返しても、千回とも手つきは微妙に違い、その差のところに昨日いなかった自分が現れる。だから彼は繰り返しを退屈と呼ばず、繰り返しを「新しい自分の出現する場所」と呼び替えた。

この言葉が残った理由もそこにある。仕事の価値を、売上でも評価でも称号でもなく、自分の更新に置き直したからだ。人間国宝も文化勲章も辞退し、肩書きを一つも持たないまま窯の前に立ち続けた生き方と、この一句はぴたりと重なる。外から与えられる新しさ(役職、環境、肩書き)ではなく、自分の手から出てくる新しさだけを頼りにする——それがこの短い言葉の、静かで強い主張である。

現代への示唆

今日あなたがする仕事の大半は、昨日とほとんど同じ作業だろう。寛次郎はその繰り返しを否定しない。繰り返しの中にこそ「繰り返さない自分」を探せ、と言っている。だから今日は、いつもの定例業務を一つだけ選んで、そこに小さな変更を一つ入れてみてほしい。手順の順番を入れ替える、メールの書き出しの一行を変えてみる、資料の並べ方を変える——成果が劇的に変わらなくてもかまわない。目的は改善ではなく、「昨日と違う自分」を一つ見つけることだからだ。それが見つかった日、仕事は自分をすり減らすものから、自分を更新する装置に変わる。場所を変えなくても、新しい自分には会える。

背景と出典

この一句は、陶工・河井寛次郎(1890-1966)が自作の詞と随筆を収めた本人の著作に載る言葉である。多くの資料が典拠に挙げるのが『いのちの窓』(1948年9月、西村書店刊。現行版は河井寛次郎記念館監修で東方出版から出ている)で、同書は前篇「火の願ひ」、後篇「いのちの窓」、そして自作の言葉に本人が解説を添えた「自解」から成る(随筆集『火の誓い』を出典とする再録もあり、書名は資料間でゆれがある)。この句に寛次郎自身が添えた自解はこうだ——「昨日の自分には人は皆用がない。繰り返しなんかには用がない。いくら繰り返しをやっていると思っても、その繰り返しの中にいつも繰り返さない自分を見ようとしているのだ。どんな強いられた仕事であっても、次々により新しい自分を見ようとして引きずられているのだ」。刊行は敗戦から三年後、物資も窯の燃料も乏しい時期にあたる(収められた詞の多くは、それ以前の戦時下に書きためられたものと伝わる)。寛次郎はすでに1937年のパリ万国博覧会でグランプリを受けた第一人者だったが、京都・五条坂の窯で毎日ろくろに向かう一職人の位置を離れなかった。のちに人間国宝の指定も文化勲章も辞退し、無位無冠の陶工として生涯手を動かし続けた人の、仕事観の芯にある言葉である。