この名言の意味

このスピーチの核心は、「賞」という到達点を示すはずの場で、黒澤があえて「まだつかめていない」という未達成の感覚を語った点にある。功労を称える名誉賞は、通常であればこれまでの功績を振り返り、集大成として受け止められる場面だ。しかし黒澤は、そこで自分の仕事を完成形として語るのではなく、映画という対象そのものへの探求がまだ終わっていないことを強調した。

この姿勢は、黒澤が晩年まで新作を撮り続けたこととも一致する。名誉賞を受賞したのと同じ1990年には『夢』を発表し、その後も1991年に『八月の狂詩曲』、1993年には遺作となる『まあだだよ』を監督している。「わかっていない」という言葉は謙遜の修辞ではなく、最後まで映画を作り続けた黒澤の実際の生き方そのものを表す一節として読むことができる。

現代への示唆

生涯を映画に捧げ、世界中から「巨匠」と称えられた80歳の黒澤が、最高の栄誉を受ける舞台で口にしたのが「まだよくわかっていない」という言葉だったという事実は、実力や実績が十分に認められた後こそ試される謙虚さについて考えさせられる。仕事で結果を出し、周囲から評価されるようになったとき、人は自分の見方ややり方を疑わなくなりがちだ。今日、自分が最も得意だと思っている分野について、あえて「まだわかっていないことは何か」を一つ書き出してみてほしい。そこに次の成長のヒントがある。

背景と出典

1990年3月26日、米ロサンゼルスのドロシー・チャンドラー・パビリオンで開催された第62回アカデミー賞授賞式にて、黒澤明はアカデミー名誉賞(功労賞)を受賞した。プレゼンターを務めたのは、黒澤の作品から大きな影響を受けたと公言するジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグ。授賞式の様子は世界中に生中継され、日本でも大きく報じられた。このスピーチは通訳を介して伝えられたものであり、複数の独立した報道・記録で一致して伝わる文言として広く知られている。世界的な映画作家として最高の栄誉を受けたその場で、黒澤が語ったのは慢心ではなく、「映画をまだ理解しきれていない」という謙虚な言葉だった。