この名言の意味
まず、この言葉が「まちがえるな」でも「まちがってもよい」でもなく、「まちがったっていいじゃないか」という形をしていることに注目したい。「じゃないか」は、相手に同意を求める語尾である。上から許可を与えているのではなく、隣に座って「そんなに困ることかね」と一緒に首をかしげている。命令や訓戒であれば読者は身構えるが、この語尾では身構えようがない。関西で長く暮らした森らしい、押しつけない口調が、そのまま内容になっている。
次に、これを言っているのが数学者だという点が効いている。数学は、正しいか誤っているかが最も厳密に決まる分野だと思われている。その分野の専門家が、若い読者に向かって最初に言ったのが「まちがったっていいじゃないか」だった。数学の証明は、たいてい行き止まりの試行を何十回も重ねた末に立つ。間違えた道筋を捨てる作業そのものが仕事なのであって、一度も間違えずに答えへ着く人などいない。厳密さを職業にした人ほど、間違いが手順の一部であることを知っている。
三つ目に、この言葉は「正しさ」の適用範囲を限定している。学校のテストでは答えが一つに決まるが、社会に出ればそうはいかない。どの仕事を選ぶか、誰と組むか、いつ引き受けていつ断るか——正解を先に確かめてから動ける問いは、ほとんどない。決着のつかない問いに対して「間違えないこと」を目標に据えると、人は動けなくなる。だから森は目標を置き換えた。間違えないことではなく、間違えたら直すこと。評価の基準を結果から手順へずらしたのである。
最後に、これを「いい加減でよい」と読むのは取り違えである。この言葉が免除しているのは、間違えた責任ではなく、間違える前の恐れのほうだ。直すことまで含めて引き受けるからこそ、先に踏み出せる。逆に、間違いを一度も認めない人は、直す機会も永久に手に入らない。間違えるのが怖くて止まっている自分に、今日いちばん必要な一言として、この短い一行は書かれている。
現代への示唆
仕事でも勉強でも、私たちがいちばん時間を失うのは、間違えている時間ではなく、間違えるのが怖くて動かない時間だ。会議で的外れかもしれない意見を飲み込む、下書きが完璧になるまで送らない、やったことのない仕事に手を挙げない——どれも「間違えない」ことには成功しているが、そのあいだ何ひとつ前へ進んでいない。森の言い方に従えば、間違いは避けるものではなく、進みながら直すものである。今日ひとつだけ試すなら、「まだ自信がないので出せません」と抱えているものを、七割の出来のまま誰かに見せてしまうことだ。直せばいいと先に決めておけば、出す速さは上がり、直すのも早くなる。間違えた回数ではなく、直した回数で自分を数え直してみてほしい。
背景と出典
これは数学者・森毅(1928-2010)が1981年、五十三歳のときに中学生ほどの若い読者へ向けて書き下ろした本の題名である。初版は創隆社の「ジュニアブックス」の一冊として刊行され、1988年3月に筑摩書房のちくま文庫へ収められた(225頁、ISBN 978-4-480-02207-3)。同書は「やさしさの時代に」「ドジ人間のために」「なぜ勉強するの」「他人を気にする」「受験戦争をこえて」「自分は自分が作る」「ときには孤独の気分で」「ヤジウマの精神」など十八の章から成り、著者が自分の少年時代を振り返りながら、正解を急がずに生きる構えを平易な話し言葉で語ったものだ。森は京都大学教養部で三十四年間にわたって教養課程の数学を教え、「一刀斎」と号して学生に親しまれた名物教授であり、同時に民間の数学教育運動にも加わって、公式を覚えさせる数学ではなく考え方そのものを面白がる数学を説き続けた人だった。書名が「間違えるな」の反対を向いているのは、受験と偏差値が子どもを締めつけていた時代に、正解を出す速さで人間を測る風潮への異議でもあった。加えて森は、一九四五年の敗戦を十七歳で迎えた世代である。正しいと教えられていたことが一夜で覆るのを見た人が、後年、若い読者に「正しさ」を性急に決めつけない構えを勧めたことの意味は小さくない。