この名言の意味

この言葉のいちばんの強みは、比喩である前に観察の結論だという点にある。水槽のメジナは、性格が悪くなったから仲間を攻撃するのではない。逃げ場のない密度に置かれた結果として、そうふるまう。つまり原因は個体ではなく容れ物のほうにある。この順序が入れ替わらないことが決定的に重要で、いじめられている側が「自分に何か欠陥があるからだ」と考える必要はまったくない、という結論がここから自動的に出てくる。慰めではなく、観察から導かれた事実として。

次に「もったいないですよ」という語の選び方を見たい。彼は「いじめはいけません」とは書いていない。加害者を叱る言葉でも、被害者を憐れむ言葉でもない。惜しんでいるのは、双方の時間である。「大切な友だちができる時期」を、狭いカゴの中の力関係に費やしてしまうこと——それが単純に割に合わない、と言っている。善悪の裁定を避けているのではなく、裁定より先に「そこにいる限り誰も得をしない」という構造を示している。だから説教の匂いがせず、二十年近く読み継がれてきた。

そして「出てみましょう」の「てみる」である。ここは強い命令ではない。移住しろ、辞めろ、逃げろ、とは言っていない。試しに一度、という程度の軽さで差し出されている。この軽さは弱さではなく設計だ。いじめの渦中にいる人、行き詰まっている人には、大きな決断を下す体力が残っていないことが多い。だから最初の一歩は、いちばん小さくしておく必要がある。「広い空の下」という前置きが効いているのもそのためで、まず建物の外に出るくらいのことから始めていい、と読める。

最後に、なぜこの言葉が魚の専門家の口から出たことに意味があるのかを考えたい。彼は学歴の階段を上って専門家になった人ではなく、好きなものだけを見つづけた結果として専門家になった人である。学校の物差しでは測られなかった時間が、そのまま彼の資格になった。その人が「外にはもっと広い海がある」と言うとき、それは励ましの定型句ではなく、自分が実際に泳いでみた海の話になる。言葉の説得力は、言い回しの巧みさではなく、誰が言うかに宿る——この一句は、そのことをよく示している。

現代への示唆

これはいじめだけの話ではない。部署、教室、家庭、SNSのタイムライン——人は、自分がいま入っている水槽を「世界」だと思い込む。だからそこで低く扱われると、自分の価値そのものが低いのだと錯覚してしまう。けれど実際には、水槽が狭かっただけ、ということが本当によくある。だから今日、たったひとつでいいので、いまの水槽の外に触れる予定を入れてみてほしい。別の部署の人に一言だけ質問してみる。しばらく会っていない友人に連絡する。帰り道を変えて知らない駅で降りてみる。まったく関係のない分野の本を一冊借りる。目的は転職でも転校でもない。「ここが世界のすべてではない」という感覚を、頭ではなく身体に入れておくことだ。外側を一つ知っている人は、同じ場所にいても呼吸が深くなる。

背景と出典

これは魚類学者でイラストレーターのさかなクン(1975年生)が、2006年12月2日付の『朝日新聞』に寄せた文章「広い海へ出てみよう」の結びの二文である。当時はいじめを苦にした子どもの自死が相次いで報じられており、同紙は「いじめられている君へ」という連載を組んで各界の人にメッセージを依頼していた。さかなクンはそこで、まず自分の中学一年生のときの記憶を書いている。吹奏楽部で一緒だった友達が、ある日から誰にも口をきいてもらえなくなったこと。いばっていた先輩が三年生になったとたん、今度は無視される側にまわったこと。そしてその友達と学校を離れて釣りに行くと、海岸で並んで糸を垂れているだけで、ほっとした表情になったこと。続けて彼は、自分がいちばんよく知っている魚の話をする。メジナは広い海の中では仲よく群れて泳いでいるのに、狭い水槽に何匹も入れると、必ず一匹を仲間はずれにして攻撃しはじめる。その一匹を別の水槽へ移してやると、残った魚たちが今度はまた別の一匹をいじめはじめる。同じ場所に住み、同じえさを食べる、同じ種類同士なのに、である。広い海の中ではこんなことは起きないのに、小さな世界に閉じ込めると、なぜかいじめが始まる——この観察を置いたうえで、彼はこの二文で文章を閉じた。反響は大きく、この文章はのちに絵本『さかなのなみだ』(リヨン社、2007年)となり、いまでは中学校の道徳教材にも採られている。